小説金日成 上下

『小説金日成』上下、李恒九(萩原遼訳)、文藝春秋、1994

題名から思いつくような、金日成の伝記小説ではなく、1991年から1992年までの非常に短い時期を扱っている。また金日成個人に焦点をあてた小説ではなく、むしろ労働党の中下級幹部らが主人公になっている。金日成金正日をはじめとする高級幹部らは実名。
内容は非常におもしろく、一気に読ませる。労働党の中下級幹部が、どういう環境と圧力の中で仕事をしているのか、公式イデオロギーに対してどのような態度をとっているのか、党の指令と家族や友人関係が相反した場合どのように行動するのか、個人的なコネクションがどういう意味をもつのか、批判粛清の対象となった場合に受ける処分の過程はどのようなものか、など、北朝鮮の内部で党員の地位にあったものしかわからないような描写が細かくなされている。著者は南労党出身で朝鮮戦争を機に北朝鮮にわたり、作家として地位を得たが、南派工作員として韓国にわたった後1966年に亡命した人物。
93年あたりからはじまる大飢饉や金日成の死についてはふれられていないが、細かい描写、特にしつこく繰り返される登場人物の思考や行動のイデオロギー的正当化のようすに強いリアリティがある。おそらく幹部党員の思考法は現在でもそれほど変わっていないだろう。この本は独立した小説だが、より長い物語の第一部にあたり、続編として「小説金正日」が執筆中だと訳者あとがきにあるが、探し方が悪いのか、未訳なのか、原本が未刊行なのか、どうしても見つからない。とても残念。