詩経・楚辞

牧角悦子訳『詩経・楚辞』角川ビギナーズ・クラシックス、2014


詩経と楚辞の抄訳だが、これはかなり驚いた。というか、古代詩の翻訳は、自分が昔読んだものとはもはやぜんぜん違ったものになっている。

詩経は無難な訳しか読んでいなかったが、これを読むと露骨なエロポエム。万葉集の歌とほとんど変わらない。万葉集ができるはるか昔に詩経も楚辞もあったのだから、万葉集はこっちを学習しているにきまっているのだが、欲望全開だし、ろくでなしの夫で悔しいというような詩もある。

おとなしい、というかまじめな訳がむかし普通になっていた理由は、漢代に編纂されたときに、儒教的な立場から再解釈がされたから。それでも、朱子詩経の一部を「淫風」とののしっているのだから、詩経のエロさは、やはり知られていた。

楚辞は、さらによくわからないもので、屈原が楚辞を作ったという話自体が創作だという。従って、王に対する忠誠とか、そういうものではまったくなく、むしろ莊子の世界のような、呪術的なものと、個人の思考が響き合うところにできたもの。というか、莊子は、楚辞のような神話的世界を下敷きにしてできているもの。

中国の神話的な世界は歴史が編纂されたときに、ほとんど歴史に吸収されてしまった。だから体系的な形では神話は残っていない。その断片を知ることができるものが、詩経と楚辞。やはり古代の作品も新しい研究を知っていなければわからない。