世の醜男醜女に与う

高群逸枝「世の醜男醜女に与う 美醜闘争論」『高群逸枝語録』岩波現代文庫、2001


この文章を読みたいために、『高群逸枝語録』を買ったのだが、非常におもしろかった。

今日も、将来も、恋愛場裏に勝利するのは美人。しかも、現在は恋愛と結婚だけで勝利している美人は、将来、女性が社会進出するようになれば、政治でも、科学でも、芸術でも、あらゆる分野で勝利するようになる。サッフォーの詩を愛好する人は、サッフォーが醜いことを望むのか?という、半ばはむちゃぶりだが、真実をついたおことば。

もちろん、醜女(しゅうじょ)ばかりでなく、醜男(しゅうなん)も悲惨。しかも、醜女も醜男も、それ以外の人々も、人の美醜をごまかしている。笑いに紛らせたり、触れないようにしていたりするが、これが一番深刻な問題。醜女も醜男も、貧者と同じように多い。

さらに、美醜は日本人の中だけのことではなく、ヨーロッパ人に比べると日本人は醜の方に入る。美は白人のこと。アフリカもアジアも醜である。

夫が妻を愛するのは、夫が貧乏なとき、他の女に相手にされないとき、道徳や法律に縛られているときだけで、それがなければ、若くて美しい女の方にいくのである。料理など下手でも、美人の妻に夫はなびくもの。美が女に勝つか、女が美に勝つかの戦争があったとすれば、たいがいの妻は美から捨てられ、夫からも捨てられる。

美醜は、強権者、支配者どもによって製造されたもので、醜女醜男はそのままそっくり返上に及べ、という言葉で締め。

1929年4月の『婦人公論』に載った原稿。これは90年前の『ブスの本懐』だ。言っていることがほぼおなじ。わかってらっしゃる方は昔からいたのだ。