漢文の素養

加藤徹『漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか?』光文社新書、2006


日本への漢文移入についての本。古代の話はほとんど知らなかったので、勉強になった。

卑弥呼は漢字が書けたのかといえば、それはわからないという話。結局、漢文をまともに書けるようになったのは、朝鮮半島や大陸から渡来人がやってきた4世紀末から。それまでは、文字はほとんど使っていなかった。

初期に使われた漢文も、当時の漢語の規則に従った純正漢文と日本風に書かれた変体漢文(和化漢文)の二通りが並行して使われていた。純正漢文を使えたのは一部の知識人だけ。5世紀の終わりには、漢字の訓読みが形成されていた。5世紀までの古墳から文字資料が出てこないので、文字は役人も日常的には使用していなかったかもしれない。

これが変わったのは6世紀に仏教が伝わってから。これは漢字がないと伝わりようがないので、これで漢字が普及するようになった。漢文を訓読する習慣も広がった。漢字文化圏でも、漢文を自国語で訓読するのは日本だけ。韓国やベトナムでも漢字は音読(自国語で)しかしない。日本での訓読は5世紀には存在していた。

江戸時代でも、一時期、漢文を中国語風に(唐音で)音読していた時があった。これでも訓読がすたれたわけではないので、漢文を日本風に直して読むことは日本に定着した習慣。「日本」という語の初出は、大化年間(645)での、高句麗百済の使者への詔にある。定着したのは、大宝律令(701)より後。

漢文が廃れてきたのは大正時代以後。敗戦の頃には一般国民はまともに漢文を理解できる状態ではなく、玉音放送の内容もわからなかった。戦後は、かろうじて漢文が科目の一つとして残ったが、漢文を読む時間そのものが劇的に減ったので、漢文はアクセサリーとしての意味しか持たなくなった。

昔の人のどういう人が「上手い漢文」を書けたのか、誰の漢文がヘタだったのか、ちょっとわかったのが収穫。口語体の文章が定着する前までは、漢文教育がないと、まともな文章が書けないことになっていたが、それ以後は漢文の読み書き自体ができなくなっていた。戦後の政治家が色紙の言葉もまともに書けなくなっていたことも当然。