日本神判史

清水克行『日本神判史 盟神探湯・湯起請・鉄火起請』中公新書、2010


神判裁判の歴史についての本。盟神探湯のことは昔読んだが、この話は8世紀に書かれた『日本書紀』に出ている。ところが、この後、室町時代まで、神判裁判についての歴史がはっきりしない。

鎌倉時代には神判裁判があった(参籠起請)ことはわかっているのだが、それは熱湯に手を突っ込むのとは違うもの。これは室町時代には「湯起請」という形で出てきた。刑事での有罪・無罪の判定にも、民事での当事者のどちらが悪いかの判定にも使われていた。やけどを負う確率はどちらの場合も、50-50。本当の熱湯である場合もあったし、そうではない場合もあったということ。

第六代将軍の義教も、「くじ」で将軍に選ばれていたので、これも一種の神判裁判。また湯起請は社会の末端でも行われていたし、権力者の命令ではなく、住民が自発的に行っていることもあった。

これが戦国時代(16世紀以後)から江戸時代初期にかけては、「鉄火起請」、つまり焼けた金属の棒を手で掴んで運ぶというレベルの上がったものになっていく。

しかも「信長公記」のような資料にも、「織田信長が鉄火起請をした」という信じがたい話が出てくる。少なくとも当時は、このことが事実として信じられていたということ。そんなことをしたら、死ぬだろうと思うが、信長はともかく、これは実際にやっていた。鉄火を取る者には、生涯公事免除という恩典があったときもあるが、いずれにせよ、ただではすまない。

そして、鉄火起請の敗者は、死罪ということがよくあった。大火傷の上に斬り殺されたらたまらないが、そういうもの。17世紀を過ぎる頃になると、神判裁判自体が廃れていく。

中国やヨーロッパでもある時期から神判裁判は廃れていくが、それは法治主義の徹底や、キリスト教の浸透という別の理由が神判を駆逐していったもの。日本は、「なんとなく合理主義の方向に社会が変わっていった」ものなので、イデオロギー抜きで神判がなくなっていったということ。著者は、明確な理由を述べていないが、人間関係の維持を重視する日本社会のあり方が影響していただろうとは言っている。

中世から近世初期の日本社会のいろんな側面がわかってとてもためになった本。