「反戦・脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか

浅羽通明『「反戦脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか』ちくま新書、2016


浅羽通明から、近頃はやりのぬるいリベラルに向けられたイヤミ攻撃。しかし、このイヤミはなかなか的を射ていて、リベラルの痛いところを突いている。

小熊英二高橋源一郎、野間易通、國分功一郎、SEALDsなど、リベラルで目立っている論者はちゃんと取り上げられて批判されている。それも、自分に都合のいいところだけを切り取って攻撃されるのではなく、まともなところとまともではないところをきちんと腑分けされた上で、彼らの議論がなぜ現実に有効性を持たないのかという理由が指摘されている。

リベラルの反安保法、反原発が多数の人を動員しながら、結局負けの繰り返しになっている第1の理由は、当事者のリベラル自身が真剣に勝つための地道な努力をしておらず、「楽しいデモに人を集める」こと自体が目的化してしまっていること。小熊英二とか、デモで社会を変えると言っているわりには、「デモに行けること自体が社会を変えたことになる」という方向に走ってしまっていて、肝心の「それで何するの」という部分がすっとんでしまっている。

第2の理由は、リベラルが「頭で考えたこと」を振り回すだけで、「生活者の利益」に食い込めていないこと。デモに行く人間は、デモが楽しいから行っているだけで、近所の人間を説得して選挙で票を入れてもらうための努力をしていない。また、いまの反安保、反原発はそういう努力をできるような考え方と組織や努力がない。学生がマイクで自分の意見を仲間内に吹聴したところで、選挙に結びつかない。大学で周囲の人間に選挙運動でもすれば、ドン引きされるのは必至。それをきちんとやろうとしていない。

著者は、「冷笑するだけの人間が一番ダサい」という批判もあらかじめ予期してそれに答えている。「何かに反対することと冷笑することはそんなに違うのか?」「客観的にみてダメなものは、目的や意図がよくてもダメ」ということ。デモに行っているリベラルは、この批判に言葉で反論することはできても、実際に選挙運動ができるかといえば無理だろう。彼らは組織や組織に入っている人たちの生活をあなどりすぎ。それではいつまでたっても社会は変えられない。