京都ぎらい

井上章一『京都ぎらい』、朝日新聞出版、2015


この本を書店で見てすぐに買う気になっていたのだが、Kindleに入るのをいまかいまかと待っていた。紙の本を買って、あとで電子化するのがもったいないからだ。たまたま見たら、Kindleに入っていた。ありがたし。

内容は著者の恨みのこもったエッセイ。著者は、嵯峨の出身で、今は宇治市に住んでいる。これが京都では、京都とは見なされない。嵯峨は京都市の西の端。洛外。宇治市京都市ですらない。そもそも伏見区も京都扱いされない。著者は、自分よりちょっと年代が上なので、嵯峨はしばらく前には京都市ではなく、愛宕弁が話される田舎扱いだったことは、自分には実感ない。それでも、本の中に出てくる、「自分も30歳をすぎてろくな縁談が来なくなった。とうとう山科の男から縁談が来た」と嘆く女性の話や、嵯峨が亀岡を田舎扱いとか、宇治が城陽を田舎扱いというのは、非常に納得。このくらいの感覚だと自分も共有しているからだ。

京都人のいやらしさは、もはや京都がえらいという実態がないのに、自分が京都にいるからえらいと思っているところ。だいたい、親の代から京都に来たなどという者は、完全によそ者扱いだし、自分が貴族でいるつもりのようだ。それも自分が貴族に縁もゆかりもない者がそう思っている。

京都を実はバカにしている大阪とか、おもしろネタが頻出。たのしく読めた。そして、気付かされたこと多数。「五山の送り火」と言え、「大文字焼き」と言うな、という話は今は当たり前のようにされていて、自分も中学校の国語教師からそのように聞かされた。しかし実際に小学生の頃は「大文字焼き」と言っていたのである。この本には、大津事件で負傷したロシア皇太子ニコライを歓迎するために、5月に「大」の字を大文字山に灯していたとある。京都の寺は貴人のためのホテル、庭は貴人をもてなすためのアクセサリー、精進料理も同じだろうと書いてある。

何よりあとがきに書かれた「七をひちと読むものと四十歳をすぎるまで思い込んでいた」というエピソードに非常に納得。自分も東京に行って、はじめて「七はしちと読む」ことがわかったのだ。恥ずかしいから黙っていたが。

著者の恨みと自虐とちょっとしたプライドの入り交じった視点はいいお味をだしまくっている。非常にすっきりした。