北朝鮮・絶対秘密文書

米村耕一『北朝鮮・絶対秘密文書 体制を脅かす「悪党」たち』、新潮新書、2015

著者は、毎日新聞北朝鮮担当記者。記事はおもしろいので、期待して買ってみたが、期待に違わず良書である。

本の基本的な内容は、著者が北朝鮮内部から入手した、検察組織の捜査関係文書を読み解きながら、現在の北朝鮮社会の状態を分析していくもの。文書の表紙の写真が掲載されていて、「検察幹部のための教養資料1 中央検察所 主体99(2010)」とある。著者が入手したのは、全体で100ページほどの文書のうち、70ページほど。ほとんどが経済事犯を扱っているが、現在の北朝鮮社会を分析するためには、まさに適した文書。捜査機関の内部文書だから、脱北者証言とは違った確実性がある。

事例は、「農場員による金鉱経営」、「硝酸トリウムの売買」、「文化財や電線の盗難」など。いずれも北朝鮮の「二重経済」、「私有経済と国有経済の相互浸透」をよく理解できる例になっている。著者による解説はていねいで、これらの事例から北朝鮮社会がどのように動いているのかを、よく理解できるように説明している。

北朝鮮社会が、ほとんど機能していない国有経済に、ワイロを通じて私有経済(もはや闇経済というには大きすぎる)が浸透し、資源の効率的利用が可能になることでようやく動いていることがよくわかる。北朝鮮が経済改革を行うというスローガンを掲げても、実際には個人営業を公的に認めることはできず、表面上は資本主義を認めないという建前をくつがえすことはできない。現実には私有経済を厳密に禁止することはできないので、国有経済が持っている資産を私有経済が利用することを微妙なさじ加減で許容することでしか、経済運営は成り立たないのだが、そのさじ加減が難しいということ。

著者は、北朝鮮が経済改革(本物の)を成し遂げて復興する可能性はわずかであっても残っていると考えているが、私有経済の存在そのものが社会主義を否定するという考え方があまりにも強いため、それは難しいだろう。この検察内部文書が資本主義的経済活動そのものを犯罪扱いしていることをみても、それは明らか。しかし検察といえども、軍や人民保安部、国家安全保衛部のような、別の権力機関のナワバリには簡単に踏み込むことができないので、それらの機関が絡んでいる問題については、捜査は全容には届かないようになっている。

著者は、国有経済に浸透する私有経済の立役者たちを「悪党」と呼んでいるが、これは言い得て妙。日本中世期の「悪党」とその実態はかなり重なっている。既存の秩序と新しい変化の両方に足をかけて、実際に経済活動を回している人々である。規制しようとしても、既存権力もこの「悪党」の一部を形成しているので、根絶することはできない。金正日の指示も、「思想と規律は厳密に守れ、外貨と物資は供出しろ」というような、すべてを同時に実行することは不可能であるようなものなので、それが次第に無力なものになっていくのも当然。

著者は北朝鮮「崩壊」論を、ある日突然大規模な住民蜂起や軍の反乱が起こるようなものではなく、政治体制が少しずつ機能しなくなり、政治的にコントロールできることの範囲が狭くなっていくような「過程」として進行するものと捉えているが、これは妥当な考え方だろう。表面上は労働党も政府や軍も存在しているが、それらは私有経済に寄生する形でしか存続できなくなっており、その過程で思想統制も少しずつ緩んでいる。その過程全体が崩壊の一部になっている。政治指導部の交代だけ見ていても、重要なことはわからないので、社会の変化を緻密に見ていかなければ、北朝鮮の変化はわからない。これは重要な指摘。