女中がいた昭和

小泉和子『女中がいた昭和』、河出書房新社、2012


これは本物のメイド=女中の実態についての本。『昭和の結婚』と同じ編者の本で、こちらも非常におもしろい。

まず女中というものがいつからいつまでいたのか。家事労働をする奉公人は昔からいたが、この本で取り上げているのは昭和、つまり1920年代以後の都市中流階級の女中。これが残っていたのは昭和30年代くらいまでで、昭和40年代になると、もはや女中という存在自体が消えてしまう。

この事実の前提になっていることは、昔の家事労働はすべて人手に頼っていたので非常に大変だということ。洗濯については、前のエントリで書いたが、掃除についても同じ。密閉されていない日本家屋では外からちりやほこりが入ってくることが多く、毎日掃き掃除や雑巾がけをしなければならなかった。

これに食事の支度(味噌汁ひとつにしても、だしを取ったり、味噌をすったりするところからしなければならない)、育児、その他の雑用が入ってくるので大変。ある程度裕福な家では、女中を雇うことが当然。

供給側の事情としては、女性ができる職業が少ないことと、女中奉公は「行儀、家事見習い」としての意味があり、若い女性の仕事として重要な意味があったことがあげられる。編者自身の母親も、徳川武定(徳川斉昭の孫、慶喜の甥)家で女中奉公をしていたことが書かれている。本物の御殿奉公だ。

基本的に女中のしごとはきつく、早朝から深夜までこき使われていた。休日は少なく、よくて月に2回。盆暮れ以外に休みがもらえないこともあった。給料は非常に安い。この本では昭和46年から48年まで女中だった(この頃には「お手伝いさん」と名前も変わっていた)人の話が出てくるが、月に2万円と言っている。もう女中がいなくなりつつある時期でもそんなもの。

女中が直面した大問題のひとつに、性関係があった。つまり奉公先の主人から無理やり性関係を迫られること。女性の立場は弱かったので、泣き寝入りも多く、子供ができるとわずかな金をくれて追い出されてしまうこともよくあった。永井荷風が女中を雇い入れて、翌日にはもう関係をもっている「断腸亭日乗」の記述が引用されている。

朝鮮人女中(多くは植民地での女中だが、日本でもわずかにいた)や、進駐軍の家庭に雇われたメイドの話も出てくる。進駐軍のメイドは、完全に洋風化された家(家電製品一切があった)で働いていたが、労働はやはり大変で、主人との性関係問題も当然あり、しかも文字通り「西洋人=主人、日本人=メイド」の人種問題があり、メイドは労働法の適用から外されていた。

女性が職業につけるようになってから、女中が消滅したのも納得。九重佑三子版「コメットさん」は、1967年から69年に本放送されていたので、女中がいた最後の時期。コメットさんは「お手伝いさん」と呼ばれていた。大場久美子版は、1978-79年に本放送なので完全に設定は現実離れしている。このドラマは、「メリー・ポピンズ」の翻案だから、しかたないけど。