広島町新開絵図を読む

「広島町新開絵図を読む」、広島市郷土資料館、2014.1.28


この施設に行った主な目的はこっちの展示を見ること。これは、江戸時代中期(享保年間)の広島町新開絵図、つまり、広島城よりだいぶ南よりにある、「新開」つまり干拓地の様子を紹介する絵図面の展示。

だいたい住居があるのは、現在の平和大通りくらいまで。現在中島町のある中洲だけは、国道2号線のあるあたりまでが住居。ほかは、ほぼ一面、田畑。

広島市は、太田川河口の三角州にあるが、広島城築城当時は、広島城の近辺までが陸地で、それより南の地区は海だった。それを江戸時代から海側を埋め立てて作られたのが今の市街。この絵図が描かれた享保年間に、どこまでが海だったか、どこに川が流れていたか、道はどこを通っていたか、およそのことがわかるようになっている。

旧三洋堂(西国街道)は、ほぼ海に近いところを通っていたことがわかって納得。この絵図ができた時には、もっと南も陸地だったので、海ぎりぎりのところではないが、新開地はろくに橋もかかっておらず、鷹野橋にようやく橋があった程度で、現在橋がかかっている場所は、渡し船で通っていたところも多かった。

ちゃんと測量して作った地図ではないので、縮尺や土地の形状は適当。しかし、いまの市街地、特に中区や南区の南半分が、住居用ではなく、農地として干拓されたもので、人はろくに住んでいなかったというのは初めて知った。江戸末期の日本の人口はおよそ3千万人なので、安芸国も人はろくに住んでおらず、城下町の広島すら、大したことはなかったのだ。

地区ごとに現在の市街が対照になって説明されていて、おもしろい。これは図録を出してくれればいいのに。