愚民文明の暴走

呉智英、適菜収『愚民文明の暴走』、講談社、2014


呉智英と適菜収の対談。自分は適菜収の本を読んでいないので、こっちのほうはほとんど知らない。しかし、基本的に呉智英と非常に意見が近い人。これなら対談しても話は合うだろう。あとがきを読むと、呉智英は適菜収と17、18年前に出会ったと書いている。

内容は、基本的にはバカ批判。正確には、「バカがバカであるという自覚なしに何でもできる社会」の批判。

いろいろおもしろいところがあるが、呉智英が「莊子」大宗師篇にある、「天の戮民」という言葉をひいて、自分も天の戮民であると任ずるのがいいところ。つまり、自分は「理想を求めるように、天から罰を科せられた人間」であるという。現実への有効性がなくても、理想を言い続けるのが知識人の使命だということで、かつ、それが立派なことではなく、あくまで「罪として科せられたものである」と認めている。これは本当の知識人の態度。

別のところでは、小島祐馬『中国思想史』をひいて、「儒教は徳による階級制を目指す」、「しかし、すべての人は、自分には徳があると思っている」と述べている。つまり、実際には哲人政治は、理念だけのもので現実にそれが成り立つ制度は作れないということ。これをわかった上で、呉はそれでも究極の理想としては賢者の政治をめざすべき、という。適菜収は、それをうけて、哲人政治、賢人政治は理想主義ではなく、現に代議制はエリート支配なのだから、それを実践しながらエリートに徳を維持させることを目指すのだといっている。

これは非常に納得。民全部に徳を持たせることはできない。従って、どこかで民を切り分けて、徳を持たせることができる者とそうでない者を分けなければならない。平等主義はこれができていない。しかも日本は、徳を立てるという考えが消えてしまったままで、何でも言いたい放題になっている。呉や、適菜のような人が必要なゆえん。