滝山コミューン一九七四

原武史『滝山コミューン一九七四』、講談社文庫、2010


1962年生まれの著者が、自分が小学校時代を過ごした東京都東久留米市の、滝山団地にある東久留米市率第七小学校での記憶を本にしたもの。かんたんに言えば、左翼かぶれの教師がリーダーシップをとって、「理想のコミューン」を小学校につくろうとして、それに反発する著者が感じていた窒息しそうな息苦しさを、当時の関係者への取材その他で裏付けをとった上でドキュメンタリーにしている。

班活動、卒業式の言葉、いろんな学校行事で「子供の自主性」という形をとった、「大人による理想の子供づくり」が行われていく。ハイライトは、「林間学校」。キャンドルファイヤーの儀式で、子供づくりの総仕上げが行われる。

著者の執筆意図は、最初のところで明らかにされているが、政治史家や社会学者が、「団地と都市化が政治の季節を終わらせ、生活保守と私の優先が起こった」と言っていることに対して反論すること。全共闘が敗北した後も、その思想的残党は学校にたくさん流れ込んでいて、その人たちによる「小学校での全共闘化」が行われていたというおはなし。

しかし、この本がかもしだしている味は、そういう学問的な部分よりも、著者が小学生として感じた「非常にイヤな感じ」を事実によってちゃんとした作品にしているところ。著者は、NHKで放送された「少年ドラマシリーズ」の「未来からの挑戦」、「その町を消せ!」の世界に例えているのだが、これは非常に納得。ドラマだと、「未来人」「パラレルワールド」が学校支配をたくらむことになっているが、こちらの世界では現実の人間が息苦しい世界をつくっているのだ。

自分の小学校時代は、教師の全体主義支配どころか、いじめっ子の集団いじめが横行していて、こっちはそれに振り回されていた。また、教師の支配力も大したことはなかった。組織的な学校管理もされていなかったし、教師に対してほとんどの子供は面従腹背で言うことなど聞いていなかったのだ。

それでも著者の体験は、よくわかる。小学校の教師がしようとしていたことは、小学生の自分にもだいたいわかっていた。「理想の集団づくり」は、東久留米市以外のところでも、小学校のひとつの理想になっていたのだ。その背景には、「全生研」という教師集団がいたことも本に書かれている。

著者は、中学受験で慶応普通部に行ってしまって、この世界とおさらばするのだが、自分はいじめに耐えられなくてやはり中学受験で公立学校とさよならした。著者が気持ち悪さを感じた、小学校共産主義と、いじめっ子の露骨な暴力秩序と、どっちが息苦しいかと言われると、正直よくわからない。しかし、中学校に行ってみると、そんなものはどちらもなく、あったのは基本的に自分の勉強で忙しくしている、本当の意味で「私化された」人たちの作っている学校だった。実は自分は、この中学校にもなじめなかったのだが、それでもいじめっ子秩序よりは数十倍ましだった。本に出てくる小学校共産主義は、もし実際に経験していたら、かなりイヤな感じはしたと思う。

「教師に支配される学校」と「いじめっ子に支配される学校」は、両極端の究極の学校社会。どちらがマシかはわからない。味わったのが片方だけでよかったとは思う。