細木数子 魔女の履歴書

溝口敦『細木数子 魔女の履歴書』講談社+α文庫、2008


この本を読むまで細木数子について、ろくに知らなかったのだが、ほんとうの怪人物。自分が細木数子について知っていたことは、テレビで占いと称して出演者に恫喝的な物言いをすることと、安岡正篤の晩年の妻(これも、本書によれば正確な表現ではない)だったことくらい。

しかし、この本を読むと、細木数子という人物がやってきたことはそんなレベルではないことがよくわかる。簡単にまとめると、「ポン引きから身を起こして、ヤクザの情婦をしながら飲み屋を経営、島倉千代子を食い物にしてさらに稼ぎ、占いを見よう見まねで覚えた後は、安岡正篤に取り入ってその名前を利用し、さらにテレビに出演して有名になると、本の出版、講演、それらを利用した墓石販売でさらに稼いでいる人」ということになる。

この本が文庫化された2008年の3月には出演していたテレビ番組が終了し、テレビ業界からは引退しているが、金稼ぎを引退したわけではないので、テレビ以外の方法による稼ぎはまだ続けているだろう。テレビ出演が終わった背景に、おそらくこの本ほかの暴露本の出版と、それに対して細木数子が起こした訴訟騒ぎがあったことは明らかで、一般視聴者は知らなくても、ここまで悪名(それも暴力団絡み)が高くなると、テレビ局も細木数子を出し続けることはできなくなったと思われる。

細木数子という人の人生は、戦後日本の暗部そのもの。細木数子は1938年生まれなので、敗戦時には7歳だが、高校を中退してパトロンを持ち、そのカネで店を出していた。出身は渋谷の百軒店(青線地帯=非公認の売春街)で、子供の頃からポン引きをしていた。その後は銀座で飲み屋を開くが、そこでも店の女の子に売春をさせ、さらにヤクザとつながってその情婦となるだけでなく、自分も半ば女ヤクザとして振る舞っていた。

島倉千代子の負債整理に関わって、有名であることがカネに直結することに気づくと、占い本を出し、安岡正篤と関わりをもって、自分の知名度を上げていく。安岡正篤との関係は、安岡が半ばボケてからのもので、安岡の家族や周辺の人々は細木数子を非常に嫌っていたことも書かれている。

有名になった後は墓石販売を利用して荒稼ぎするが、客とのトラブルも頻発。この墓石業者=久保田家石材商店という会社は、「世にも不思議なお墓の物語」という本の広告を、京都のKBS京都によく出していたので、昔この局が映る地域に住んでいた人は知っているはず。

テレビに出るようになったのは、かなり年を取ってからで、レギュラー番組を持つようになったのは2004年、66歳の時から。もちろん、ゲストや単発の番組にはそれ以前から出ていたはず。現在のように、暴力団との関係にテレビ局が非常に敏感になっている状況だったらありえなかっただろうが、この頃はまだそれほどうるさくなかったのだ。

この本の出版にヤクザを使って圧力をかけた経緯や、訴訟を起こしてダメージコントロールを図った経緯も詳細に書かれている。さすがにテレビには出られなくなったが、暴露本は細木数子の本ほどには売れていないから、まだ細木数子の言うことを真に受けている人もたくさんいるだろう。

強面で厚顔な人間が有名になるとどれほどのことができるのかがよくわかる本。この本に書いてあることだが、細木数子はやり方が強引なだけ敵も多く、細かく取材されると旧悪がボロボロ出てきてしまうところに非常に納得する。それでも細木数子は数十億円の単位でカネを持っていてまだ現役なのだ。悪人というのは簡単にはやられない。