蔵書の苦しみ

岡崎武志『蔵書の苦しみ』光文社新書、2013


帯に「重版出来!」とデカデカと書かれている。そんなにめずらしいことでもないと思うが、出版社はこの内容の本が、一ヶ月で重版がかかるということを誇らしくおもったのかもしれない。

タイトル通り、莫大な蔵書をためこんでいる(中には、逆に極端に蔵書の少ない物書きも紹介されている)人たちの話。著者自身が、蔵書のうち3000冊ほどを「一人古本市」と称して売りに出したが、ほとんど蔵書の山は減っておらず、たぶん3万冊は持っているだろうという人。

著者のように本そのものを対象にするライターや、作家、研究者など、執筆を仕事にしている人だとこのくらいの蔵書数はふつうにあり得る。しかし3000冊ならいいが、3万冊だと要塞のような家でないと収納できない。研究室や書斎にも限りがある。家が傾いだり、本当に床が抜けたり、火事になって蔵書が全部灰になってしまったりした話がたくさん載っている。

万単位の蔵書は本棚に全部収めておけないので、積み上げたり、ダンボール箱に入れたままになっていたり、要するにどこに何があるのかわからない状態になる。結局死蔵されるだけで、ある本が家のどこかにあるはずなのだが見つけられないので買い直すとか図書館に走るという間抜けなことになる。

結局これは本を捨てたり、売ったりできないから起こることなので、蔵書を収納できるレベルにまで厳選しなければ解決しないのだが、蔵書を厳選といっても簡単にできるわけではないこともきちんと書かれている。「自分の血肉と化した500冊があればいい」とおっしゃっているが、これはたいへんなこと。

著者は、本の自炊、電子化にはまったく興味をそそられず、図書館も他で手に入れることができない場合に利用する以外、使わないと言っている。「物としての本」が好きなのだ。同じ内容の本のカバーが違うだけで3冊買うとか、自分にはまったく理解できないことだが、本そのものを愛している人にとっては何のふしぎもないのだろう。

著者は電子化にはどうしても抵抗したいのだが、それがあまり先のない道であることもわかっている。正確には、物としての本を求める人と本のコンテンツだけを求める人にはっきり分かれていくということ。自分は後の方なので、電子化大歓迎だし、図書館も使える限りは使うからそれでいい。この本を読んで、いろいろ考えさせられたのだが、それは別の本の感想に付け加えることにする。