石ころだって役に立つ

関川夏央『石ころだって役に立つ』集英社、2002


副題は、『「本」と「物語」に関する記憶の「物語」』となっていて、著者がよく書く形式の、半分エッセイ、半分創作の文章を集めたもの。著者は1949年生まれで、この本が描いているおはなしの時期は1950年台から1970年代の前半まで、著者が子どもの頃から、20代前半までになる。この本に収録された原稿の初出は1997年から1999年まで。もう15年近く前に書かれたのだ。

15年たっても内容が古びたということは全然起こらない。もともと書かれた時点で昔話だったからだ。著者とはずいぶん生きてきた年代が違うので、1960年代後半に高校生から大学生活を過ごした人の体験は共有できないのだが、それでも書かれていることはなんとなくわかる。つまり、本を読むことが「エライ」ということになっていて、たくさんの本、特に哲学書を読んでいることが「エライことの証」とされていた時代である。自分が学生だった時には、もうそういう雰囲気はなくなりかけていたが、まだ残りカスのようにそう思っている人たちはいた。自分もその一人だったので、著者の書くことは自分とつながっていることとして、受け取れる。

だから著者が、「読書とはなんだろうかと考えることがある。どう考えても生きる上に必ずしも有用なこととは思えない」と書いていることには非常に納得がいく。著者ほどの読書はしていない自分ではあるが、著者が「好きではなかったのによく読んだ。おそらく、読書のなかに我を忘れたかったのだろうと思う」というところは、読んでいて胸が痛い。

著者は教養世代の終わり頃の人で、もう教養というものの化けの皮がだんだん剥がれかかっていた時期。バブルくらいの頃には教養など誰も問題にしなくなっていた。最近、たまにビジネス雑誌に「教養」を身に付けろみたいなことが特集されているが、読む人はどういうつもりで読んでいるのだろうか。今頃、他人より多少本を余計に読んでいたところで、特に偉そうにできるわけはないと思うが、それでも、本を読むことが骨董趣味のように珍重されているのかもしれない。

あとがきには著者の年齢についての一文が載っている。著者が40代後半になってからこの本の原稿を書いたのだが、「若い読者にとっては、60年代も70年代も単なる考古学的過去」と言っている。実際そのとおりで、70年代どころか、今ではバブル期の話自体が考古学的過去になりつつある。

昔の話を語るときは、自分の胸が痛くなる。著者には長く、こういう文章を書き続きてほしいと思う。