日本海軍の終戦工作

纐纈厚『日本海軍の終戦工作 アジア太平洋戦争の再検証』中公新書、1996


これはかなりおもしろかった。主に日本の終戦工作に海軍「穏健派」=岡田啓介、米内光政らがどのような役割を果たしたのかを、「高木惣吉史料」ほかに依拠して検証を行った本。

著者のスタンスは、「海軍穏健派は太平洋戦争開戦に反対し、敗戦前の終戦工作により、結果として日本を救った」という見解に反駁すること。著者によれば海軍「穏健派」という言葉は、開戦に反対していたとか、戦争を可能な限り早く終わらせようとしていたというようなことを意味しておらず、陸軍、戦争継続派との違いは単に政治手法の違いをいうに過ぎないとする。

したがって、「海軍善玉論」は、海軍が自己組織維持と、保守勢力の自己正当化のために政治的に利用されてきたアイディアにすぎないとされる。このような説に実証的に反論が行われる。

まず開戦時点での海軍の行動について言えば、海軍の目的は、「陸軍に手柄を横取りされないこと」であり、海軍戦備の充実、海軍の地位向上が第一に目指されていたとする。また海軍はヨーロッパでの戦局が少なくとも初期は、ドイツの圧倒的優位のうちに展開することを読めていなかったし、ドイツとイギリスの間で中立を保持して、どちらにでもつける立場を温存しようとしていた。

結果的には「ジリ貧」論に引きずられて、日米開戦に進んでいったというのが実情に近い。

終戦工作については、東条内閣打倒工作に海軍は積極的に邁進するが、海軍内部分裂や、重臣らの間でも態度が分裂していたこと、天皇が東条内閣を厚く信頼していたことで工作はなかなか進まなかった。それがやっとできたのは、木戸幸一ら宮中グループとの連合ができたことと、サイパン島陥落で、戦争はいよいよ負けということが明らかになったため。

しかし、その後も陸軍中枢の戦争継続派を抑えて戦争を終わらせる努力はほとんど進展しなかった。海軍は敗北の連続で発言力が低下し、なによりも天皇自身が「連合軍を一撃して戦果をあげてから講和」という議論にこだわっていたことが重要な理由。

ソ連参戦、原爆投下を、米内光政は「言い方は悪いが天佑」だと言っており、その理由は、「国内情勢を表面に出さなくても事態を収拾できるようになったから」だとする。つまり海軍が前面にたって責任を負わなくても、ポツダム宣言受諾を言い出すことができるようになったからである。米内光政は、国体護持、海軍の再建を早くから考えており、実際にもそのように行動していた。

結果として海軍は、陸軍と東条英機に責任を押し付ける形で、国体護持と自己組織温存を図っていたわけで、そのような動きは戦後保守勢力の再編とも関わっていたとする。

著者の主張は、高木惣吉史料の他、米内自身の発言等に依拠しているので、簡単に反駁はできない。「海軍反省会」の公開などで、海軍善玉説もかなりダメージを受けているが、そのような立場を早い時期から実証的に明らかにした点で意義のある本。