源平の争乱

上杉和彦『源平の争乱』吉川弘文館、2007


吉川弘文館から出ている「戦争の日本史」シリーズの6巻。「源平合戦」=治承・寿永の内乱を扱う。期間は、保元、平治の乱から、義経失脚と守護・地頭制の成立まで。内乱のおよその展開をフォローした上で、軍記物語を史料の一部として使いながら、それと史実がどうズレているかということを中心に書いている。

内乱の当初、京の平家方では甲斐源氏の反乱がむしろ重く見られていたこと、頼朝が挙兵以後、どのようにして関東に勢力を扶植していったか、木曾義仲による迅速な北国支配とその急速な没落の理由、一の谷、屋島合戦の史実、壇ノ浦合戦の特異性など、いろいろな箇所で、知らなかったことが多く書かれていて参考になった。

また、戦争の様式についても、短い一節が当てられていて、それまでの戦争よりも兵の動員数が飛躍的に増えたことにより、馳組戦(はせくみいくさ=騎馬武者同士の弓射戦)では決着がつかないことが多くなり、その場合は組討ち戦に移行して決着がつくまで戦いが続いたとあるが、これはどうだろう。確かに武者たちにとっては戦闘の目的は、手柄=恩賞だから、敵の首を取ることは何よりも重要だったはず。しかし、弓射で決着がつかないと徒歩武者や雑兵も交えた接近戦で最終的な決着がつくまで戦闘が続いたというのは本当だろうか。この時期の戦争の死亡率や負傷率、その原因がわからなければ結論めいたことは言えないだろう。弓射の段階である程度、形勢が決まって、逃げ出した側を一人一人捕まえて組み打ちにして首をとった(敦盛最期など、典型的なそういう戦闘例に見える)ということも多くあっただろうと思われる。

だまし討ちでも、奇襲でも、卑怯といわれようが、何でもやっていたこと、武士だけでなく、僧兵の役割が思われていたより大きかったこと、雑兵や、軍夫、杣、職人など、戦闘従事者や補助者は、戦場付近の一般民から広範に徴発されていたことも書かれていて、それは納得。また、頼朝や平家の行動を見ると、兵を集めること=地方武士を味方陣営に集めることが非常に重要で、それを達成するために、どの陣営も大きな努力を払っていたことがよくわかる。

自分が知りたかったのは、平家物語にある、「五万騎」「十万余騎」「二十万騎」といった、一方の人数が数万人に及ぶとされる戦闘が実際にはどの程度あったのか、この時代に平家、頼朝、義仲という主要勢力がどの程度の動員力を持っていたのか、動員された軍勢はどのくらいその規模を維持して継戦能力を持っていたのかが知りたかったのだが、それについては断片的な評価(数万人と言っているが、その数分の一程度)以外に明確な記述なし。史料が、吾妻鏡や、公家の日記、百練抄、愚管抄といったものなので、やむを得ないのかもしれない。