宇能鴻一郎と会って

平松洋子宇能鴻一郎と会って」、『オール読物』2011.10月号

文芸誌はまったく読まないし、この雑誌もはじめて読んだ。というか買った。理由は平松洋子のこの記事が読みたかったから。宇能鴻一郎の小説を目にしなくなって何年たつかわからないが、こういうのもなんだが、非常にお世話になった恩人の様子をうかがうような気持ち。

この記事は平松洋子が8月に宇能の自宅に出向いてインタビューしてきた内容を原稿にしたもの。宇能はインタビュー、取材、対談の類を一切受けない方針だったと書いてあるが、確かにそういう記事は見たことないわ。まあポルノ小説家で自分のことを派手に晒す人はあまりいないのだが、宇能は非常に売れていた人だったし、ポルノ小説でも特別な位置を占めていた人だったから、声がかかったことは多かっただろう。

宇能の自宅は横浜の屋敷町にあり、敷地600坪、鎌倉と軽井沢にも別邸があり、かつては東京にも家があったという。家で社交ダンスの会をやっているとあるので、それだけの豪邸ということ。本人は現在77歳、身の回りの世話は、もう半世紀も宇能についているという秘書の老婦人がしているそうで、インタビューには燕尾服で現れたという。なんだか芝居がかかっているが、このインタビュー記事を読むと宇能自身とその人生がそういうちょっと芝居じみたものだということがわかる。

最後に作品を発表したのは平成18年9月の日刊ゲンダイで、それ以後はまったく作家生活からは引退しているという。作家生活は45年。最盛期には月産1100枚書いていて、原稿料は日本一高いと言われていたという。本人は引退してこのような暮らしをするために書いていたと言っていたとあるが、尋常な仕事量ではない。

インタビューの内容は、「食と官能の関係について」ということで、食についての話が多い。とはいえ他のこともいろいろ書いてあり、士族の父母の家に生まれて、親が軍需工場を職場にしていたため、北海道、山口、満州にも住んでいたこと、母親には溺愛されていたこと、敗戦時は満州にいて抑留され、盗みで捕まったあげくにソ連軍の司令官宅で裸で給仕をさせられていたこと、などなど。

自分のことを「ポルノ界のモーツァルト」と呼んでみたり、「人に読ませたいという気はない。自分のためだけに書く」「いま構想中の小説もあるが絶対に発表しない。発表したら世間から爪はじきだから」と言っていたり、自負心も、外の世界への不信感も非常に強い人である。「僕は自分に求めるものが強いのです」とも言っている。

宇能はある意味成功した人だが、芥川賞の『鯨神』とわずかな小説、エッセイ以外、ほとんどの作品は図書館には入らないし、当然絶版で(といっても、電子書籍としてはまだ売られている作品があるが)、同時代の人がいなくなればいずれ忘れ去られていく運命である。ポルノ作家は作家とは見なされないから、そのことに対して思うところも多かっただろう。インタビュアーの平松洋子にしても、宇能のエッセイ「味な旅、舌の旅」といくつかの中間小説の作品、それからインタビューが決まってから宇能の秘書から送られてきたといういくつかの作品には目を通していても、宇能のポルノ小説はほとんど読んでいないだろう。宇能がポルノ小説の中でどれだけ食べ物をおいしそうに書いていたかを読んで知っている身としては、宇能の作品のほとんどを読んでいる人がインタビュアーだったらと思わないではいられない。

しかし、このインタビューも平松洋子のような全然ポルノに縁がない人だったから応じてもらえたのだろう。平松は宇能を三島由紀夫に擬しているが、ある意味それは当たっている表現だと思う。この記事の貴重さにもかかわらず、紙数は8ページしかない。それが宇能に対する現在の扱いだということなのだろう。それでもこれが読めただけよかったし、この記事はスキャンして取っておこうと思う。