天皇の肖像

多木浩二天皇の肖像』、岩波新書、1988

明治期のはじめの二十年間で、天皇の肖像写真が「御真影」となり、天皇が末端の住民に可視化されるようになっていくプロセスを描く本。天皇御真影が社会のすみずみに「下付」されることによって、自分たちが天皇を支えているという感覚が社会に植えつけられていったという。著者は、「権力が民衆を支えにし、民衆も権力の束縛を支えにしているという閉塞的な社会の仕組みがあり、そうした出口のないコスモロジーが崩壊するときこそ、日本が近代的消費社会に変容するとき」だといっているのだが、それはどうだろう。別に近代的消費社会であっても、そうした仕組みと両立して差し支えないと思うのだが。また、天皇が神格化されながら、同時に文明開化に結び付けられたとき、なぜその対象が天皇でなければならなかったのかという問いに対しては別の機会に答えを譲るとされているのだが、日本にそのような対象となりうるものがほかにあったのかと考えれば、その答えの範囲はおのずと限られるように思う。