日露戦争史
横手慎二『日露戦争史 20世紀最初の大国間戦争』中公新書、2005
日露戦争の発端は、日本とロシアの交渉上の齟齬。日本でもある程度そうだが、特にロシアでは国内で強硬論が優勢で、戦争になれば日本は劣勢なので、押しこめばよいという意見に支配されていた。慎重だったウィッテは、政治的に力を失っていて、この事態を止める力がなかった。
しかし、日本も、戦争になった場合、特に負けた場合の結果はよく考えられていなかった。慎重論だったら伊藤博文は、交渉が不調に終わると発言することをやめてしまい、軍部、特に陸軍はロシア軍の動員能力について甘い見通ししか立てていなかった。何より、初期の作戦計画だけは考えていたが、戦争計画は立てていなかった。勝っていたから問題にならなかっただけで、負けていれば悲惨。
戦争が日本の勝利に終わったのは、ロシア軍の指揮官たちの消極的態度と、ロシア側もまともな戦争計画を立てておらず、動員、輸送、海軍の展開時期などで失敗していたから。また、何よりもロシアの国内事情。戦術的な敗北を重ねたところで、国内が動揺し、戦争を継続できる状態ではなくなってしまった。
日本側の戦争動員兵力108万人、うち戦死8万4000人、戦傷14万3000人。ロシア側は、戦場に輸送された兵力129万人、うち戦死5万人を含む損害27万人あるいは、戦死4万8000人を含む損害19万人。ロシアはまだ耐えられるが、日本側の損害はもはやこれ以上の補充が難しいレベル。
しかもロシア側が戦史をきちんと記録することに熱意を注いでいたのに対して、日本側は都合の悪い歴史は封印していた。これが後々の大失敗の一因。