「ゴジラ」とわが映画人生

本多猪四郎『「ゴジラ」とわが映画人生』、ワニブックスPLUS新書、2010


この本は、1994年に同名で実業之日本社から出ていたものを再刊したもの。山本真吾が本多猪四郎に1986年から87年にかけて行ったインタビューを整理している。「第一部 わが映画人生」が4分の3くらいあり、「第二部 映画への思い」は5分の1くらいしかない。インタビューは継続される予定だったが、それができないままで出版したと書かれている。

タイトルでは「ゴジラ」が強調されているが、読んでみると、本多猪四郎にとっては決定的な一作というわけではなく、それなりに思い入れはあっても、たくさん撮影した映画の一つ。監督した映画だけで46本あるのだから、当然。

特撮映画でしか知らなかった本多猪四郎だが、特撮ではない普通の映画(青春ものが多い)もたくさん撮っている。ほぼ特撮ばかり撮るようになったのは、1960年の「ガス人間第1号」より後。戦争映画は、監督作品としては「太平洋の鷲」、「さらばラバウル」2本だけなので、そんなに多くはない(ただし、助監督で「加藤隼戦闘隊」などには入っている)。やはり特撮でも怪獣映画が中心の人。

読んでいると、職人監督で、いろいろと細かい部分で作品に思いは残っているが、ほんとうに残念がっているのは、「妖星ゴラス」で会社の要求で怪獣を無理やり出すことになったことや、「緯度0大作戦」がアメリカとの共同製作の失敗でひどい出来になったことなど。

大人向けではない、子供向け特撮をじゃんじゃん撮っていたことは、そういう仕事だからと受け入れている。映画監督をやらなくなってから、黒澤明作品「影武者」、「乱」、「夢」、「八月の狂詩曲」を演出補佐という形で手伝っていることも、「クロさんとは気が合ったから」としか言っていない。「やりたくない作品というものはない」とも言っている。

ゴジラ」については、広島や長崎、ビキニ環礁の実際の被爆についてはあまり考えず、科学と人間についての一般的な問題として考えたと言っている。平田昭彦の芹沢博士のセリフが、本多猪四郎の立場。

円谷英二との関係(呼吸が合ったという)や、テレビ特撮の撮影など、いろいろ重ねて聞いてほしいところがあるが、これが生前の唯一のインタビューなので、残っていることだけで貴重なもの。