教養としてのプロレス

プチ鹿島『教養としてのプロレス』、双葉新書、2014


お笑い芸人、プチ鹿島のプロレス本。しかし、プロレスを紹介する本というよりは、「プロレス的なものの見方」を紹介する本。これはおもしろい。

自分はプロレスをほとんど見たことがなく、そもそも格闘技全般を見ない。だから、この本に出てくるネタのほとんど、特にプロレスの名試合を知らない。レスラーも超有名だった一部の人しかわからない。それでもこの本の内容には納得させられる。

まずプロレスの再定義から始めている。「八百長、筋書きがあるもの」ではなくて、「予想以上のものを見た時、心が揺さぶられている時、それを解釈しようとする心」がプロレスだという。これだけではよくわからないが、つまりは「筋書きがあっても、そのとおりに物事が進行するわけではない。その、筋書きを離れた瞬間を楽しめるのが、プロレス的なものの見方」だということ。

この本に、1991年に大宅壮一ノンフィクション賞を、井田真木子の『プロレス少女伝説』がとった時の立花隆のコメントが出ている。これがかなりひどいもので、「プロレスは、品性と知性と感性が同時に低レベルにある人だけが熱中できる低劣なゲーム」だと言っている。罵倒としても相当なもの。これに対する著者の返しが、「人生に無駄があっていいじゃないか」。これは明らかに著者が一本とっている。立花隆は、「自分はつまらないと思う」ということを、他人の罵倒に置き換えているだけ。

著者は、「斜に構えてものを見たことはない」と断言している。正面から必死で対象物を見なければ物事はおもしろくならないとも。演者が主導権を持っていて、それに対して「下から目線」で見上げないと夢中にはなれないということ。そのためには見る側が演者に対して敬意を持っていることが前提だし、それが成り立つためには、演者が敬意に説得力を持たせるだけのものを持っているかどうかが問われるという。

「芸術」分野では、演者、作家が受け手よりもエライのが当然。ヘタだったら、客はブーイングだが、それは演者がうまくて当然という前提があるからだ。ところがサブカルチャー分野では、この図式が成り立たないことがある。これが「多少」であればまだいいが、客が最初からツッコミを入れようと手ぐすね引いているようなことが普通になってしまうと、何も楽しめないことになってしまう。著者の言い分は、そこをついている。

政治家に対するコメントも面白い。橋下徹は、「ツイッターそのもの」だと言っている。最初から炎上上等で商売しており、突っ込まれても、ツイッターはどんどん書けば流れていくから、そこで話題が代わってしまう。しかし従軍慰安婦発言ではそうはいかなかった。これをそれまでと同じパターンで、攻撃を連発して流そうとしたので、ますます傷が深くなった。これは非常に納得させられる説明。

安倍晋三は、「お友達申請内閣」だとも言っている。つまり、お友達申請してくるファンだけを見ているということ。フェイスブックは「いいね」しか押せないシステムだから、反論は聞こえない。そういうことをツールにしているのだが、人間、ツールを使っているつもりでツールに振り回されてしまうこともある。

映画雑誌で若者に「なぜ映画館に行かないのか」と聞いたら、「おもしろいかおもしろくないかわからないものにお金を出したくない」という答えが返ってきた。著者は、「昭和からプロレスを見ている者には信じられない回答」というが、確かにそうなのだ。今の人は多くが「失望させられる」ことに対して寛容でない。これは自分もそうかもしれない。