八重の桜 36話

「八重の桜」36話、「同志の誓い」


八重のところに府庁の役人が来て、女紅場から解雇すると通告。しかも女紅場の生徒からは、「八重先生、耶蘇の方と結婚されるんですって」と陰口をたたかれる。

覚馬も商人の前で講義をしていると、「先生は耶蘇ですか」と突っ込まれる。槇村が「学校では絶対に耶蘇は教えさせない」と答えて話を引き取る。八重が女紅場解雇について、槇村に直談判に及ぶと、「女紅場に残って働きたいのであれば、耶蘇の男と結婚はするが、自分は耶蘇にはならないと生徒の前で宣言しろ。内心で何を信じるかは隠してもいいが、表に出すな」と注文をつけられる。八重は、「そんなことは筋が通らない」と反論するが、追い払われる。

新島襄は、東京に引っ越した公家の屋敷を買って、そこに学校を建てようとするが建物はボロボロ。襄は全然動じないが、町人たちが「耶蘇は出て行け」と怒鳴りこんできた。襄が土下座してもまったく相手にされないのだが、松方弘樹の大垣屋が出てきて、町人たちをなだめ、場を引き取る。

八重には、女紅場で耶蘇にはならないと宣言するかどうかの期限が来た。八重は、生徒の前で演説するが、「後ろめたいところも後悔もないので、宣教師の夫に従う」と断言するので、府庁の役人に引き立てられる。生徒が賛美歌を歌っている間に引っ張られる八重。「会津の者はおとなしく恭順しねえのです」。

西郷は鹿児島で私学校を開くが、西郷に反乱を起こさせまいと、大山彌助が西郷を訪問。言うことを聞いてもらえなければ、自分も西郷についていくと頼む彌助に、西郷は「おまえは新政府に必要」と諭して、別れる。

襄の学校では、聖書の授業があると府の認可が出ないということで、科目名には聖書を教えるとは言わないで申請することになる。しかし実際には英語のリーダーには聖書を使うつもり。学校には、覚馬が「同志社」の名前をつけた。

学校はできたが、聖書を教えていると聞いた槇村が直接やってきて、聖書を教えるのは認めんと言い出す。八重は、「生徒たちの学びたいという気持ちは奪えねえ」と反論。槇村は、覚馬に「東京で拘束された時に駆けつけてきてくれた恩があるから、それに免じて今回は黙っておくが、もうこれきりだ」と絶縁宣言をして去っていく。

八重の結婚の前に、佐久は西洋風のウェディングドレスを準備していた。女紅場の外国人教員のお古をもらってきて、仕立て直したもの。八重はそのドレスを来て、牧師の司式で結婚。日本で最初のプロテスタントの結婚式。八重は結婚の前日、洗礼を受けて入信しましたというところでおしまい。


キリスト教の学校ということで、徹底的に迫害される話なのだが、全体的に話を端折っているので、安っぽい感じになってないか?京都の町衆が大垣屋になだめられてあっさり引っ込むところとか、八重の「最後の授業」の場面とか…。授業の場面は、八重が黒板をどこかから取り出して、「フランスばんざい」と書きそうな勢い。

前回と今回くらいで、強引に同志社を中心とした明治教育史をメインにする話に持って行かれたが、戊辰戦争の陰惨なイメージに慣れてしまって、だんだん話の展開についていけなくなってきた。高嶋政宏槇村正直はけっこういい味を出しているが、肝心の新島襄オダギリジョーでアホっぽい気がする。宣教師だから、そのくらいでちょうどいいのかもしれないが…。

戊辰戦争までの話に全体の3分の2を取った理由も、「復興ドラマだから」という以外に、明治以降だけの話だと「知らない人たちが出てきて、なんだかよくわからないことをやっているドラマ」にしかならないということがあるのだろう。実際、「春の波涛」は1年通して見るにはつらいドラマだった。しかし、次回から同志社の学園ものみたいなドラマになっていくのか。それもどうなの。