ピョンヤンの夏休み

柳美里ピョンヤンの夏休み わたしが見た「北朝鮮」』講談社、2011

柳美里が訪朝記を書いたというので読んでみたが、まあ想像通りの内容。

韓国人の柳美里にとって北朝鮮は「祖国」だそうで、その理由は柳美里の祖父が日本に渡っていた時は南北分断の前だったのと、マラソンランナーだった祖父は共産主義者の疑いをかけられて投獄され、その弟は南労党の関係者とみなされて殺されたので、もしかしたら兄弟で北に逃げていた可能性があると考えているから、らしい。そんなら祖国というより、祖父ゆかりの地だと言えば済むような気がするが、それは柳美里の個人的感覚の問題なので、まあ別に構わない。

柳美里は2008年、2009年、2010年と続けて訪朝しており、忙しい作家生活のあいまに時間を作ってのことなので、よほどの思い入れが北朝鮮に対してあるらしい。それも柳美里の個人問題だから別に構わないが、この訪朝記、「自分が見てきたありのままを書く」と称していて、問題は柳美里北朝鮮で「見せられたもの」を、これが北朝鮮の現実だと勝手に思い込んでいること。

当然のことだが、北朝鮮では外に見せて都合の悪いものは訪問者には一切見せない。自由行動はできないのだから簡単である。柳美里はもちろん北朝鮮で自由行動ができないことはよくわかっている。しかも朝鮮語はほとんどできない。従って会話もほとんどは通訳を通している。それでなぜ「北朝鮮で自分が見たものこそが現実だ」などと脳天気に思い込めるのか?

そして朝日新聞若宮啓文が、開城を見学した際のコラムで「ソウルとは別世界の痛々しさだ」と書いていることを、「痛々しい」書く根拠が書かれていない、ちょっと見ただけで他国の人間を貶める資格はない、と論難している。柳美里も開城に行っているのだから、平壌とは違って、町を歩いている人が異常に少なく、車はほとんど走っておらず、服装も街の様子も、少なくともソウルと比べると圧倒的に貧相であることくらいは見ただろう。北朝鮮がたとえ平壌であっても、ソウルと比べると「痛々しい」ことくらいあたりまえだ。それでこんなことを書いているのだから、まさに「お里が知れる」というものだろう。

柳美里自身はどうかといえば、「拉致問題以降、日本のテレビや新聞は国民の感情的偏見に迎合するかたちで偏った情報を垂れ流し、いまや左右声を合わせて「犯罪国家・北朝鮮」への制裁を叫ぶという最悪の状況になってしまった。日本こそ、霧の国なのだ」と平気で書いている。日本の北朝鮮情報がどういうふうに「偏って」いるのか?北朝鮮の犯罪行為に目をつぶっているのはなぜなのか、説明は何もなし。

柳美里は自分が見たものこそが「北朝鮮のありのままの姿だ」と思っているらしいが、こんな人間が北朝鮮にとって一番都合がいいのである。見せたいものを見せておけば勝手に信じるわけだから。しかも柳美里北朝鮮に見ているのは、自分の心のなかにある「幻想の祖国」である。日本に対する不満の裏返しで北朝鮮を見ているだけ。日本で流れている北朝鮮に対する不利益な情報には耳を貸さない。それでいて、北朝鮮で聞いた「祖国統一」という言葉に熱くなっているのだ。

柳美里北朝鮮に妙な幻想を抱いて、それをふりまいているのは、1960年代や70年代の北朝鮮訪問者の記録と何も変わりない。案内員に言われたことをそのまま信じているだけである。「朝鮮戦争時に、アメリカ兵が子供の腕をノコギリで切り落とした」とか、まともに信じているらしい。アメリカ兵だったら、ノコギリなんて使わずに、銃で一発撃って終わりにするだろう。全編がこのていたらく。しかも今は21世紀で、北朝鮮の情報は集めようと思えば集められる時代である。あきれて口もきけない。