こころの時代 坐禅は生涯の”主食”

「こころの時代」 「坐禅は生涯の”主食”」、NHK Eテレ、2011.6.26

たまにしか見ていない「こころの時代」だが、この回は出演者がたまたま名前を知っている人だったから見た。ほんとうはぜんぜん知らない人が出ている回を見た方がいいのだが・・・。

出ていたのは、ネルケ無方師。兵庫県にある安泰寺住職。ドイツから来て30歳で得度し、師匠が亡くなってから寺の住職をしている人。

日本人の融通無碍な宗教観については「おかずのつまみ食い」とバッサリ言っている。まあそれはそうだ。「白米は噛まずに食べられるが、玄米はちゃんと噛まなければ食べられない。夏の暑さも冬の寒さもそのまま味わうことがなければ修行にはならない」と、これもごもっともな話。

師は子供の頃から生きる意味が見いだせず、まわりの誰に聞いても答えは得られなかった。ドイツでの高校時代、坐禅サークルの教師に誘われてイヤイヤ座ったことが「体の発見」になって、それから禅仏教の道を探し求めてきたという。

しかし大変なのはそれからで、ホームステイで日本に来ても修行者として受け入れてくれるところがない。その後留学生としてまた来日した時に、園部の寺に入山し、そこの師が安泰寺を出た人だった縁で安泰寺に入る。しかし入山した後は「おまえが安泰寺を作るんだ」と言われる一方、「おまえなんかどうでもいい」と言われ、その言葉の間で非常に悩んだという。

その後安泰寺を出て、京都の専門僧堂に入り、また安泰寺に戻る。誰でも坐禅ができる道場を開こうと考えて、寺を出るが、師匠が亡くなって呼び戻され、今の生活になった。住職になってから三年は頭の中が真っ白だったという。

師は「大人の修行」と言っている。「人に言われて、人のためにするのではなく、自分の意思ですること。しかし、自分を捨てなければ修行にはならない」という。それでも自分は簡単には捨てられず、したいことは出来ず、修行者同士ケンカもする。そこで「百尺竿頭」の話が出る。この話はすなおに耳に入った。

特に禅仏教の基本的な態度から変わったことは何も言っていないのだが、言葉がすなおに耳に入る。著書が出ているので、これを読まなければ。ネルケ無方『迷える者の禅修行―ドイツ人住職が見た日本仏教』新潮新書、2010