華麗なる一族

華麗なる一族』(上、中、下)山崎豊子新潮文庫、1980

テレビドラマの放送からしばらくは、図書館の棚からいつも消えていて読めなかったのが、ようやくふつうに読めるようになった。読んでみると、2007年のテレビドラマ版がかなり原作を書き換えているのに対して、74年の映画版は大筋で原作に非常に忠実につくられていたことがわかる。74年のテレビドラマ版を見ていないのが残念。CS局のどこかで再放送してくれないものか?はっきりいって、07年のテレビドラマの脚色は失敗である。あれを見ておもしろいと感じた人は、何をおいても原作を読むべきだ。

今読むと、金融業界のありさまが全然違う時代の話なので多少違和感があることは否めない。また、その点を差し引いても、「企業合併の話なのに、株主の意向がまったく問題になっていないのはなぜか」「特に阪神銀行は万俵大介のオーナー銀行ということになっているからいいとして、大同銀行の資本関係について全然書かれていないのは不思議」「阪神特殊鋼をつぶして帝国製鉄に引き取らせる、というのはいいとして、阪神銀行阪神特殊鋼への融資についてはどうなるのか。かりにもメインバンクである以上、債権の一部が焦げ付いたとすると銀行の財務状態の悪化はさけられないはずなのに、そのことに触れられていないのはおかしい」その他、いろいろと疑問が浮かんでくる。

ということで経済小説として読むとちょっとなんだかなあという感じもあるのだが、題名通り、「上流階級の人々の生活」を描いた小説として読めば、非常におもしろく、また話の出来もすばらしい。山崎豊子はたくさんの登場人物を出してきて、それらをうまく操って話をきちんとまとめるのが上手い人だが、この小説は彼女のその資質が遺憾なく発揮されている。上流階級とはどういうものかを知らない読者に、上流の人たちはこういうことを考えていて、こんな生活をしているんですよ、ということを絵に描いてみせたのは作者の卓越した力量の成果である。「白い巨塔」もちょっとそれに近いが、あちらは金というより権力と名声に執着する人たちの話なので、こちらのように上流階級そのものを題材にしているのとはちょっと違う。

そういう意味では、万俵大介も、息子の鉄平も、方向性は違うが、同じ上流階級の人である。ちょっとそこから外れているような人は、万俵家次女の二子くらいなもので、それ以外の人たちは上流階級に生まれ、その生活を当然としている人たちである。だから、そこから外れている娘婿の美馬中なんかのように、学歴と能力で成り上がってきた人物は上流階級からは内心バカにされている。

また現実について言えば、ほんものの上流階級の人たちは、万俵家の二子のように「愛情のために、上流たる地位を捨てる」なんてことはふつうは考えない。自分の地位を維持することが一番大切で、愛情など後からついてくるくらいの感覚だし、それで十分満足なのである。だから銀平みたいなニヒリスティックな人もあまりいないものだ。だいたい妻が実家に帰って離婚すると騒げば、離婚のような世間体に響くことは迷惑なのだから自分で連れ戻しにいくくらいどうということはないのであり、それをあえてしない銀平こそ、上流の規格からはちょっと外れた「へんな人」である。

権力欲、金銭欲、色欲、名誉欲、いろんな欲望にまみれた人たちの「人間図鑑」みたいな本で、そういう人たちの生態を眺められることでもほんとうにおもしろい。ストーリーテリングも秀逸。オチもきいている。こういう小説を書ける人が最近あまり出ないのはざんねんだ。