SとM

鹿島茂『SとM』幻冬舎新書、2008


サディズムマゾヒズムを文化史的に考察した本。非常におもしろい。

まず著者は、「SMというのは、虐待や支配とは違うよ」というところから話を始める。これが非常に重要なポイント。著者によれば、SMの本質は「エロティックな信頼関係」だという。マゾヒストは、「あなたなら自分の欲望をここまで実現してくれるはずだ」と期待し、サディストは、「あなたが喜ぶために、このようにしてあげればいいはず」と相手の期待を先回りして実行する。この両者の呼吸が会ったところにSMが成立するので、自分のやりたいように相手をムチでぶん殴って、相手はよろこんでヒーヒー言うというようなものはない。

だから著者はSMとは支配願望とはまったく別のところにあるので、それは、「失われた絶対者へのノスタルジー」だという。中世以前のキリスト教社会、ナチス・ドイツソ連毛沢東時代の中国、北朝鮮などには、「M]はそんなになかったはずだという。日常生活そのものが「M]の状態では、それとは別に絶対的服従とか、被支配とかいうものを求める必要がない。そういう関係が失われたところに、支配されることの安定感や充足感を幻想として味わいたいという願望が生まれる。それがMであり、役割としてMを味あわせてやることがSである。この議論は非常に納得。ナチスと性的退廃や耽美を結びつける映画は、1960年代以降に出てきたもので、そこには被虐、嗜虐の究極がナチス時代にあったはずだというロマンティックな幻想があったのだ。

鹿島茂の本なので、西洋史フランス史浩瀚な知識に基いて、SMの元祖、キリスト教との関係、SMが近代になってから登場してきた理由、西洋のSMが「革製の拘束具と鞭」を道具にしているのに対して、日本のSMが「縄による拘束」を道具にしている理由、などが縦横に語られる。著者によれば、光源氏は、女性(紫式部を含む、読み手の女性)から見た「理想的なS男」であり、少女マンガはコテコテのM文学、谷崎潤一郎は究極のSM文学ということになる。この議論は非常に説得的。

西洋のキリスト教から来るSMが、「苦痛を通じての神との出会い」から来ているのに、日本のSMは、「自由が苦痛だから、自由を拘束されることが快感」という概念から出ているという議論にも納得する。

そもそもSMはセックスの付録ではないという説にも動かされた。関係性についての幻想なのだから、セックスと関係はあっても、セックスの副菜や調味料ではないのだ。

いろんな視点で、人間の欲望の深部を突っ込んでいる佳作。